零戦の栄光
(中国戦線)

昭和12年、海軍航空隊は中国の華中、華南に展開、アメリカ陸軍航空隊退役将官クレア・L・シェンノートによって
立て直された中国軍に苦戦を強いられていた。シェンノートは大陸奥地に退いて日本軍爆撃隊を迎撃するという
航空戦理論で日本軍を苦しめ、蒋介石から絶大な信頼を得ていたのだ。
高度な操縦技術と厳格な規律によって立て直された中国軍は、日本軍爆撃隊にとって脅威であり、これにかなりの
損害を被っていた。14年に入り、96式艦戦が投入されると中国空軍は戦い方を変え、戦いはさらに泥沼化した。

制空権を確保するには、中国軍機をパイロットもろとも撃墜することが必要である。すなわち日本軍にとっては
中国軍へのアメリカのバックアップは目の上のたんこぶだったのだ。
そんな時、12試艦戦の情報を聞いた日本軍の海軍航空隊は、その高性能に目を見張り中国戦線に配備するよう
海軍に催促した。まだ試作段階の12試艦戦であったが第一線の将兵には
もはや正式採用など待ってはいられない状況だったのだ。

そうして昭和15年7月21日、12試艦戦は試作機のまま中国、漢口に送られた。この部隊は、横須賀航空隊で
操縦訓練中だった横山保、新藤三郎大尉の指揮する2個中隊15機だった。
そして前線に12試艦戦が送られた直後の7月末、この試作機は「零式艦上戦闘機」として制式化された。

ただ、配備されたからといってすぐに戦闘に参加できるわけではなかった。実戦機として採用するには、無線機
兵装、または機体細部に改修を施さなければならない。

漢口に着いてからは連日のように実験飛行が行われ、Gがかかると脚が出てしまうトラブルや、急に20mm機銃が
出なくなったり、空中戦の最中にシリンダーの温度が上がりエンジンが焼き付くおそれがあったりと、改修すべき
点が浮上してきた。技術陣は、零戦のこれらのトラブルを解決していった。さらにそれをチェックするためと
操縦技術向上のための訓練をしなければならない。

訓練に明け暮れ、一向に出撃しない横山大尉は司令官に「命が惜しいのか!」とまで言われたが、テストを繰り返し
ついに8月19日になって零戦12機が96式陸攻54機とともに出撃する。だが、中国軍も新鋭戦闘機の情報を察して
いるのか、この日重慶には敵の戦闘機の姿は見えなかった。零戦の初陣は空振りだった。
2度目の出撃は翌日の20日だったが、またもや敵戦闘機の姿は見えず、無駄に終わった。

3度目の出撃で、零戦隊が重慶を去って20分後に中国軍機が重慶に戻ってくるのを偵察機が発見する。
そして4度目の出撃となる9月13日、新藤大尉が率いる13機の零戦は重慶爆撃を終えいったん帰途についたが
50kmほど行ったところで重慶に再突入。そこに安心して上空に上がっていた中国軍機を発見。初の空中戦となった。

敵機はソ連製の旧式戦闘機ポリカルポフ「イ−15」「イ−16」計27機。たちまち交戦に入り30分で全機撃墜。
零戦隊は被弾4機で損害ゼロ
という、すばらしい戦果を上げた。
20mm機銃の威力はすさまじく、最初の命中弾で敵機の主翼付け根に大穴をあけ、続く命中弾で機体が吹き飛び
墜落していった。

これを機に日本軍は重慶から成都の制空権を確保、12空零戦隊は目覚ましい活躍を見せ、増漕装備時には
3500kmに及ぶ長い航続距離を生かし、遠くゴビ砂漠、ヒマラヤを望む大陸奥地にまで進出、一方的に勝利
おさめ、大陸の制空権を掌握することになる。
初陣から大東亜戦争開戦前までの中国戦線における零戦の戦果は、撃墜270機。さらに昭和16年に入ると
中国軍は零戦にかなわないことを悟り、戦闘機を飛ばさなくなってしまった。おかげで零戦隊は出撃しても敵機を
発見できないまま帰還することが多くなった。
中国戦線における零戦の被害は地上砲火による2機のみ(!)という圧倒的なものであり、むろん空中戦による
被害はゼロ。ここに「無敵零戦」の神話はスタートするのであった。

なお、この零戦隊の活躍を知ったシェンノートは、その高い空戦能力、長い航続距離に驚き、ただちにイギリスや
オーストラリア、アメリカ本国に零戦に関する情報を送った。しかも零戦は米英の戦闘機と遜色がないどころか
時には圧倒されることもあると警告までしている。しかしアメリカはこの警告を信じなかった。
日本は近年まで欧米の模倣でしか戦闘機が作れず、そのような高性能な戦闘機など作れるはずがないと
タカをくくっていたのである。

当時のアメリカの情報では、日本の空軍力は日華事変では中国軍にも劣り、パイロットの数も年間1000人以下しか
育成できない
ため、大規模な作戦はできないということだった。
第2次世界大戦直前の戦力分析でも、日本には空母が4隻しかなく、艦載機も200機程度しかないという誤った
見方
をしていた。(実際は正規空母が6隻、小型空母3隻、艦載機は零戦だけで590機あった)

中国在住の米陸軍武官補も、零戦に関する機密文書を日米開戦前に本国に送っているが無視されてしまった。
シェンノートに至ってはその報告は、錯覚かあるいは中国軍パイロットの未熟さをごまかすためのねつ造だと
決めつけられた。日本を航空後進国と見下すアメリカの先入観は根強かった。しかしその先入観こそが
大東亜戦争開戦初頭における真珠湾奇襲、フィリピン・クラークフィールド基地空襲での大損害につながるのである。

中国戦線、大東亜戦争開戦初頭において活躍した零戦11型。
熟練搭乗員との組み合わせによって無敵の強さを見せた。
零戦は12空零戦隊の運用結果をもとに11型以降、細部にわたる
さらなる改修を進めていくことになる。
地上員の「帽振れ」に見送られ、漢口基地から出撃する第12航空隊の
零戦11型。これは昭和16年夏頃の撮影で、中国戦線での活動も終わりに
近づいたころである。中国戦線で零戦の相手になった戦闘機は
ほとんどがソ連製I-16、I-15、I-153であり、これら2級戦闘機は当然の
ごとく零戦の敵ではなかった。




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