戦術として見た特攻作戦



特攻とは、大西中将自身が「これは統率の外道である」と語ったように、もはや作戦ではなかった。
敵を撃滅するという目的が理性や常識を越えてしまい、死の美学や一億玉砕という狂った考えを
助長してしまったのだ。ここでは、戦術として特攻のプラス面とマイナス面を見ていきたいと思う。

まず特攻作戦というのは、そもそも出撃機全部が帰還できない。航空機、パイロットともに不足
している時に
、攻撃自体が完全な損失。つまり全損になるのである。
これは日本側からすれば、続ければ続けるほど兵力を失い、退却を余儀なくされることを意味する。
いかに米軍に損害を与えようが、成功や失敗に関わらず自軍の兵力は次々と減っていくのだ。
もちろん
アメリカ側からすれば、特攻機が命中しようがしまいが、結果的には来襲した日本軍機を
「全機撃墜」したことになる。
日本側からすれば、戦闘可能状態にある航空機がすべて未帰還となる。
それは言わずとしれたことだが、やがては自滅に至る戦法なのである。
これは勝つための戦法ではなく、負けを前提とした上で単に時間稼ぎにしかならない戦法と言える。

出撃するパイロットはほとんど最後の勝利を信じて死んでいったが、一部の人間は日本の敗北に
気づいていた。死を前提とした攻撃は、もはや国民を守るはずの軍隊が国民を犠牲にしてまで
時間稼ぎをし、軍隊という組織そのものを温存しようとしていたことの証でもあるのだ。
これは沖縄戦でもっとも顕著に現れるが、
個人特攻や限定特攻では隊員の特攻精神に美学も
あった
だろうが、最終的な全軍特攻になると、もはや半分悲劇といえる状況が作られていくようになる。

軍部としてはパイロットの技量不足による爆弾の命中率低下を補うために航空機もろとも体当たり
するという戦法を採用したわけだが、だからといって死を前提とした攻撃を採用する必要はなかった
はずである。
命中率の向上や米軍に多大な恐怖を与えるという心理面での効果をはるかに超えて
100%生還不可能な攻撃というのは、パイロットの精神的衝撃や生への苦悩、または
作戦参加機の
100%の損失という事実
も相まって、マイナス面の方が大きいのである
それでは物理的に見るとどうか。航空機ごと命中した場合と、爆弾だけが命中した場合の
破壊力の差というのはどれくらいあるのか。実は航空機ごと体当たりした場合と、爆弾のみが
命中した場合では、
爆弾のみの命中の方が破壊力が大きいのだ。

速度が同一であれば航空機の質量が加わるぶん特攻の方が破壊力は大きい。
だが
爆弾が航空機に装着されている限り、爆弾の速度は航空機の速度を超すことはない。
しかし自由落下した爆弾はどんどん速度を増すので、当然その運動エネルギーも強力になる。
しかも航空機が激突した場合、まず機体が爆弾によって破壊されるため爆弾の衝撃力が緩和
されてしまう。
たしかに、流出したガソリンによる焼夷弾効果や命中率の向上などプラス面も
ある。しかし敵艦を破壊するという目的において、このことは大きなマイナスであろう。
事実、特攻隊の中には爆弾を先に投下して機体は別の場所へ突入せよと命じていたケースもあったし
せっかく命中しても、破壊力が足りないため飛行機ごと装甲にはじき返されるという状況も発生した。

それに特攻作戦自体も、初めの頃は大戦果をあげたが米軍の対策が強化されていくに従って
徐々に命中率が下がっていく。史上最大の特攻作戦であった菊水作戦を見てみると、2200機
以上が特攻に参加したが、
それによる米軍の損害は沈没→26隻、損傷→164隻であった。
1隻の艦艇に複数の特攻機が命中した場合もあったが、数十機が出撃しても戦果ゼロの場合も
あったため命中率は約6%だった。しかも正規空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、沈没したのは
いずれも駆逐艦や輸送船であった。しかもその戦果の裏には、常に若い隊員の犠牲があった。

しかし軍部は特攻に固執した。もはや絶望的な戦局の中、正攻法による挽回は不可能だったからだ

戦術的に見ても戦略的に見ても実施すべきではなかった特攻作戦。それは誰が見ても明らかだが
祖国の危機を救うためにただひたすら勝利を信じて死んでいった若者たちがいたことも事実だ。
通常攻撃に徹していたら300隻以上の敵艦に損害を与えることはできなかったし、もしかしたら
占領後の日本の運命も変わっていたかもしれない。特攻で散華した若者の純粋な行動には、ただ

敬服するだけなのである。と同時に何の戦況分析やその後の展望のないままに、いたずらに
特攻指令を出し続けた戦争指導者には、深い怒りを覚えるのである。

なお、特攻の生みの親と言われている大西滝治郎中将は、最初のうちこそ「特攻は統率の外道」と
言って特攻には反対であったものの、
マリアナ沖海戦での敗北を期に特攻作戦を推し進めていく。
終戦間際には豊田副武とともに戦争継続を訴え「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば
戦局挽回は可能」とも発言している。
だが大西は特攻発動後は妻とも別居し、終戦の日の翌日特攻隊員との約束通り終戦翌日の
8月16日に官舎で切腹を遂げている。

かけつけた軍医に対しても大西は「生きるようにしてくれるな」と言い、介錯すら拒み、長く苦しんで
死ぬことを自ら望んだという。
なんと腹を切ってから10時間以上も苦しみ続け、息を引き取っている。
残された遺書には

特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に
謝せんとす
次に一般青少年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に
副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。
諸子は国の宝なり平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為
最善を尽くせよ。
とあった。

なお、大西はこうも言っていた。
「わが声価は棺を覆うて定まらず百年ののち、また知己なからんとす」
自分が死んでも、その評価は百年経っても定まらない。誰も自分がやったことを理解しないだろうと。
特攻を発動した大西自身が特攻のむなしさ、罪深さを一番よく分かっていたのである。
大西滝治郎、享年54歳であった。


なお、諸説言われている「特攻は片道燃料だった」という説は、その証言や作戦内容から、今やほぼ
覆されている。
部隊によっては燃料を少なくしたところもあったとは思われるが、鹿児島から沖縄まで
600〜800kmはあるうえに、爆弾を積むようには作られていない戦闘機に重い爆弾を積んで、さらに
敵に発見されないように低空飛行したため、燃費は悪化していた
のである。また、沖縄へ行くにしても
まっすぐ飛んでいけば敵に簡単に読まれて迎撃されるので、遠回りに迂回したりした。
当然、直線距離で700km前後でも、迂回すれば1000kmかそれ以上に達する。
ただでさえ燃費が悪いのにこのような航行を行えば、半分の燃料では途中で墜落してしまう。

中には機関故障が起きて戻ってきたケースも多々あったし、索敵機が敵に撃墜されて
特攻機みずからが索敵しながら敵にまみえる必要があった
ため、広い海で敵艦を発見できない
ケースもあった。このような、
作戦内容上必ず発生する各種問題を想定し、燃料は常に満タンに
したというのが正しい解釈
であろう。
いくら死を前提とした非道な作戦であっても、日本軍部内に「死にに行く者に満足に燃料も積ませない」
ことなどあり得なかった。
もともと燃費が悪い上に、飛行経路や条件でその都度変わるため、どれを取って「片道燃料」と
するのかさえ、これではあいまいになってくるからだ。




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